FAZER LOGIN第2話 六歳です
怜司の問いかけが落ちた瞬間、美月には病院の廊下が妙に広く感じられた。
人の足音も、遠くで鳴る電子音も、受付で交わされる声も、すべてが薄い膜の向こうへ押しやられたように聞こえる。そのくせ、陽翔の小さな手が自分の袖をつかんでいる感触だけは、痛いほど鮮明だった。
「……ママ?」
陽翔は怜司ではなく、美月の顔を見ていた。何かまずいことをしてしまったのかと、不安になっているのだろう。
その表情を見た瞬間、美月の中で何かが切り替わった。
怜司が何を疑っていようと、今ここで守るべきなのは七年前の自分ではない。目の前にいる息子だった。
「陽翔、先に検査室へ行っていて。書類を書き終わったら、ママもすぐに行くから」
「でも、この人……ママの知り合いなんでしょ?」
「そうよ。昔の知り合い。少し話すだけだから心配しなくていいの」
知り合い。
七年前、世界で一番好きだった男を表すには、ずいぶん乾いた言葉だった。
怜司の眉がわずかに動いたものの、陽翔の前だからなのか、何も口を挟まなかった。
「本当にすぐ来る?」
「行くよ。検査を一人で受けさせたりしないから、先に先生のところへ行っていて」
陽翔はまだ納得しきっていない顔をしていたが、そばにいた看護師に促され、何度か振り返りながら廊下の先へ歩いていった。
小さな背中が検査室の扉の向こうへ消えるまで見届け、美月はようやく息を吐いた。
振り向きたくなかった。
けれど、このまま逃げても怜司が諦めるとは思えない。昔から彼は、一度疑問を持てば、自分なりに納得できるところまで確かめずにはいられない男だった。
その性格が今の彼を世界的企業の経営者にしたのかもしれないが、美月にとっては迷惑でしかない。
「今みたいなこと、もう陽翔の前では聞かないで。あの子には何の事情も分からないんだから」
美月が声を抑えて言うと、怜司はわずかに顎を引いた。
「それは分かった。あの子の前では聞かない。でも、二人で話せるなら答えてほしい」
「そういう意味で言ったんじゃないわ。あなたが何を知りたいのかは分かってるけど、私には答える義務なんてないでしょう」
「義務の話をしてるんじゃない」
怜司の声も低かった。怒鳴ってはいないが、感情を押し殺していることは分かる。
「じゃあ何の話? 七年ぶりに偶然会って、息子を見た途端に『自分の子かもしれない』なんて考えたから、昔の恋人なら説明して当然だと思ってる?」
「そこまで勝手なことを言ってるつもりはない。ただ、あの子を見たら何も考えるなというほうが無理だ。似てると思ったし、年齢だって気になる」
「子供なんて、見る人によって誰にでも似て見えるものよ」
「本気でそう言ってるのか?」
怜司の問いに、美月は答えなかった。
今なら、まだ嘘をつける。
違う。
あなたの子ではない。
別の男性との子よ。
言葉にしてしまえば、それだけのことだった。
けれど、怜司はすでに陽翔の顔を見ている。
あの眉も、鼻筋も、考え込むときにわずかに下唇を噛む癖も。美月が何年も気づかないふりをしてきたものを、彼自身が見てしまった。
「……何歳なんだ」
やがて怜司が尋ねた。
来ると分かっていた質問だったのに、美月の胸は強く締めつけられた。
「それを聞いてどうするの?」
「今すぐどうこうするつもりはない。ただ、知らないまま帰れと言われても、俺には無理だ」
「知らないまま七年間生きてきたじゃない」
口にしてから、美月は自分の言葉の鋭さに気づいた。
怜司の目がわずかに細くなる。
「……その言い方は、どういう意味だ?」
「別に深い意味なんてない」
「あるだろ。さっきも『最後に会ってない』と言った。今も、俺が何かを知らないまま七年間過ごしたみたいな言い方をした。俺の知らないところで何があった?」
「今はその話をしたくない」
「分かった。じゃあ七年前のことは今は聞かない。だから、せめてあの子の年齢だけ教えてくれ」
昔より少しだけ、引き方を覚えたらしい。
全部を一度に聞こうとはしない。その変化がなぜか美月を苛立たせた。七年前にもそれができていたなら、と考えてしまうからだ。
「六歳よ」
結局、美月は答えた。
怜司はすぐには反応しなかった。
「……六歳なんだな」
「そう。もうそれでいいでしょ」
けれど、怜司の顔から少しずつ血の気が引いていくのが分かった。
頭の中で計算しているのだろう。
二人が別れた時期。
妊娠期間。
陽翔の年齢。
誰にでも辿り着ける答えだった。
「誕生日はいつだ?」
「そこまでは答えない」
「美月」
「もう十分でしょう。年齢まで教えたんだから、これ以上は聞かないで」
美月は検査室へ向かおうとした。
怜司が反射的に手を伸ばしかけ、美月は一歩下がった。
その瞬間、怜司の手が止まる。
二人の間に、七年という時間が急に形を持って現れたようだった。
昔なら、美月は彼の手を避けなかった。
怜司も、美月へ触れることをためらわなかった。
「……悪かった。触るつもりはない」
怜司はすぐに手を下ろした。
「そうして。陽翔の前でも、私の前でも、今は勝手なことをしないで」
「分かった。ただ、一つだけ言わせてくれ。もしあの子が俺の子なら、俺は何も知らなかったでは済ませられない」
「もし、ね」
「まだ何も確かじゃないからそう言ってるだけだ。決めつけて責めるつもりはない」
「責める?」
美月は思わず彼を見た。
「あなたが私を責めるの?」
「今、責めると言ったわけじゃない」
「でも頭をよぎったんでしょう。もし自分の子なら、どうして黙っていたんだって」
怜司は黙った。
その沈黙だけで十分だった。
美月の胸の奥で、七年前から乾ききらない傷が疼いた。
「そう思うのは勝手よ。でも、七年前のことを何も知らないあなたに、今になって『どうして言わなかった』なんて言われたくない」
「だから、その七年前のことが分からないんだ。俺には、美月が突然いなくなったとしか——」
「違う」
美月は反射的に遮った。
怜司が口を閉じる。
「……何が違う?」
問い返す声には怒りより困惑があった。
美月はそこで言葉を止めた。
ここで全部話してしまえばいい。
病院へ何度も行ったこと。
会わせてもらえなかったこと。
怜司本人がもう会いたくないと言っていると伝えられたこと。
別れの手紙を受け取ったこと。
妊娠が分かったあとも、それでも一度だけ話したくて連絡したこと。
けれど今、この廊下で、陽翔が検査を受けている間にする話ではなかった。
それ以上に、美月自身がまだ怜司の言葉を信用できない。
「今は話さない。陽翔の検査が最優先だから」
美月がそう言うと、怜司はしばらく黙っていた。
やがて、感情を飲み込むように息を吐いた。
「……分かった。ここで無理に聞くのはやめる」
「ずいぶん物分かりがよくなったのね」
「褒めてないだろ、それ」
昔と変わらない返しだった。
美月はほんの一瞬、笑いそうになった。
その自分が嫌で、すぐに顔を背ける。
「もう行くね。あなたも仕事に戻って。さっきから待たせてる人がいるでしょう」
「仕事は調整できる」
「そういう問題じゃないわ。七年ぶりに会ったからって、今日一日で全部どうにかしようとしないで」
その言葉に、怜司は少し驚いたような顔をした。
美月自身も、口にしてから気づいた。
それは拒絶であると同時に、「今日で二度と会わない」とは言っていない言葉だった。
「……分かった」
怜司はそれ以上追わなかった。
美月は書類を持ち直し、検査室へ向かう。
数歩進んだところで、背中に声が届いた。
「美月」
呼ばないでと言ったのに、と腹が立って振り返る。
怜司は少し気まずそうに眉を寄せた。
「悪い。これだけ聞いたら、本当にもう行く。あの子の名前、陽翔っていうんだな」
「さっき呼ばれてたでしょう」
「ああ。だから確認しただけだ」
美月が返事をしないでいると、怜司は廊下の奥、陽翔が消えた扉のほうへ視線を向けた。
「……いい名前だな」
それだけだった。
美月の胸の奥に、予想もしなかった痛みが走った。
なぜそんな普通の言葉で泣きそうになるのか分からない。
本当なら六年前、出生届を書く前に一緒に悩んでいたかもしれない男から、初めて息子の名前を褒められた。
その事実を認めてしまうと涙が出そうで、美月は何も答えずに歩き出した。
◇
「ママ、遅かった」
検査室へ入ると、陽翔はベッドの端に座り、胸元に検査用の機器をつけてもらっているところだった。
「ごめんね。書類もあったし、少し話が長くなっちゃった」
「やっぱり、さっきの人と話してたんでしょ?」
「見てたの?」
「ちょっとだけ。でも盗み聞きじゃないよ。廊下だから普通に聞こえたんだもん」
先回りするような言い訳に、美月は苦笑した。
「まだ何も言ってないでしょ」
「ママ、そういう顔してたから」
「どんな顔?」
「子供は大人の話を聞かなくていい、って言いそうな顔」
六歳児にそこまで読まれているのかと思うと、叱る気も失せる。
美月はベッド脇の椅子へ座り、機器のコードを邪魔しないよう陽翔の髪を軽く整えた。
「昔の知り合いなの。ずっと会ってなかったから、ちょっとびっくりしただけ」
「七年くらい?」
美月の手が止まった。
「どうして七年って分かったの?」
「その人が言ってたよ。『七年だぞ』って。ぼくが検査室に行く前」
聞かれていたらしい。
子供の耳は、大人が思っているよりずっと都合よく閉じてはくれない。
「そう。七年くらい会ってなかった人」
「じゃあ、ぼくが生まれる前から知ってる人なんだね」
「……そうね」
陽翔は美月の顔をじっと見たあと、少し声を落とした。
「ママ、あの人と仲悪いの?」
「どうして?」
「だって、ママ怒ってたし、あの人も困ってた。でも、すごく嫌いな人を見る顔とも違ったから」
美月は思わず息を止めた。
六歳の子供にそんなところまで見抜かれるとは思っていなかった。
嫌いなら、もっと楽だった。
七年間、何度も嫌いになろうとした。裏切られたのだと思い込み、怜司のことなんて忘れればいいと自分に言い聞かせた。
けれど、完全にはできなかった。
「大人にはね、好きとか嫌いとか、それだけじゃ説明できない人もいるの」
「ふうん。面倒くさいね」
あまりにも率直な感想に、美月はとうとう笑ってしまった。
「本当にね。大人って面倒くさいのよ」
「ぼく、大人になるのやめようかな」
「それは無理かな」
「じゃあ、なるべく面倒くさくない大人になる」
「そうしてくれるとママは助かる」
陽翔も笑った。
その笑顔を見て、美月は少しだけ肩の力を抜いた。
けれど、胸の奥に残った不安までは消えない。
怜司はもう陽翔を見た。
年齢も知った。
そして七年前の認識に食い違いがあることにも、気づき始めている。
今日だけで終わるはずがなかった。
◇
検査を終え、病院を出る頃には雨が上がっていた。
濡れた道路に夕方の光が反射し、街全体が薄い金色に染まっている。陽翔は検査で疲れたのか、美月の手を握ったまま何度もあくびをこらえていた。
「オムライス、どうする? 眠いなら今日は家で食べてもいいけど」
「食べる。眠くないよ」
「今、すごく大きなあくびしてたけど」
「口を開けただけ」
「ずいぶん長く?」
「顎の運動」
「そんな運動、いつ覚えたの」
陽翔は少し考えたあと、自分でも苦しくなったのか笑った。
いつもの会話だった。
その平凡さが今はありがたい。
できることなら今日の出来事をなかったことにして、このまま陽翔とオムライスを食べ、学校であった話を聞き、夜になれば二人で眠りたい。
けれど、美月には分かっていた。
怜司は、もう引き返さない。
◇
その頃、怜司は会社へ戻っていた。
予定されていた会議にも出たし、取締役からの報告も聞いた。資料をめくり、必要な質問をして、いくつかの判断も下した。
表面上はいつもと変わらない。
だから、会議室を出ていった社員たちは誰も気づかなかった。
怜司が説明の半分も頭に入れていなかったことに。
執務室へ戻ると、秘書がタブレットを確認しながら声を掛けた。
「本日の残りですが、十九時から海外投資家とのオンライン会議、その後二十一時からシンガポール支社との定例があります。病院視察が少し延びましたので、最初の会議を十五分後ろへ——」
「明日以降に回せるものは、全部ずらしてくれ」
秘書は珍しく顔を上げた。
「すべて、ですか? 体調がお悪いのであれば、オンライン会議も代理を立てますが」
「体調じゃない。急ぎでないものだけでいい。今日は少し、一人で考える時間が欲しい」
秘書は数秒だけ怜司の顔を見たが、それ以上は聞かなかった。
「承知しました。先方との調整はこちらで行います」
「ああ、頼む」
扉が閉まる。
静かになった執務室で、怜司はすぐには椅子へ座らなかった。
窓の向こうには夕暮れの街が広がっている。いつもなら新規プロジェクトの数字か、翌日の予定でも考える時間だった。
今日は違った。
頭にあるのは、たった一つ。
六歳。
美月と別れたのは七年前。
いや、自分の記憶では、別れたというより捨てられた。
事故から目を覚ましたあと、美月はすでに自分の前から消えていた。連絡はなく、家族からは「彼女はもう終わりにしたいと言っている」と聞かされた。
金を受け取って出ていった、とも。
それを信じたくなかったから、何度も確かめた。
けれど返ってきた答えは同じだった。
そして今日、美月は自分に向かって言った。
最後に会っていない。
七年前のことを何も知らない。
その言葉が引っかかる。
「……何なんだよ」
誰に聞かせるでもなく、声が漏れた。
怜司はスマートフォンを取り出し、クラウドに残した古い写真を開いた。
普段は見ない。
削除できなかっただけだ。
七年前。
八年前。
大学近くの安いカフェで笑っている美月。夏祭りで浴衣を着た美月。海辺で髪を押さえながらこちらを睨んでいる美月。怜司が焦がしたパスタを前に、腹を抱えて笑っている二人。
どれも今の自分の生活から遠すぎて、他人の写真のように思える。
怜司はしばらく画面を見たあと、別のフォルダを開いた。
神代家に保管されていた古い家族写真を、数年前にデータ化したものだった。
六歳の自分。
入学式の日、母親の隣で妙に緊張した顔をして立っている。
怜司はその写真を拡大した。
眉の形。
鼻筋。
顎の輪郭。
真面目な顔をしたときに、わずかに下唇を噛む癖。
病院で見た少年の顔が、嫌になるほど鮮明に蘇る。
似ている子供などいくらでもいる。
年齢が合うからといって、それだけで何かが証明されるわけではない。
美月が自分と別れたあと、別の男と付き合い、結婚し、子供を持った可能性だって当然ある。
そう考えるべきだった。
それなのに、一度生まれた疑念はもう消えてくれなかった。
もし、本当に自分の息子だったら。
六年間。
自分の知らない場所で、自分の子供が生きていたことになる。
初めて笑った日も、歩いた日も、熱を出した夜も、幼稚園へ行った朝も、自分は何一つ知らない。
そこまで考えた瞬間、怜司はスマートフォンを伏せた。
まだ確定してもいないことを考えるべきではない。
分かっている。
それでも数秒後には、また手に取っていた。
今度は、美月と最後に撮った写真を開く。
写真の中で美月は怜司の肩にもたれ、何の疑いもない顔で笑っている。
その数週間後、自分は事故に遭った。
目を覚ましたときには、すべてが終わっていた。
ずっとそう思ってきた。
けれど今日、美月はまるで違う七年前を知っているような顔をしていた。
自分が信じてきた別れは、本当に事実だったのか。
そして、もし陽翔が本当に自分の息子なのだとしたら、美月はなぜ何も言わなかったのか。
いや。
そもそも、美月は本当に「何も言わなかった」のか。
怜司は画面の中で笑っている七年前の美月を見つめたまま、初めて自分の記憶ではなく、記憶の外側にあったものを疑い始めた。
第27話 生きているよ 「ぼくのお父さんって、生きてる?」 その問いを聞いた瞬間、美月の中で、いくつもの答えが浮かんでは消えた。 まだ話すには早い。 もう少し大きくなってから。 今は知らなくていい。 ママがちゃんと考えるから。 どれも、以前の美月なら口にしていたかもしれない。 陽翔を守るためだと言い聞かせながら。 けれど今、目の前にいる息子は、何も分からない幼児ではない。 自分の過去に興味を持ち、自分と周囲を見比べ、大人たちの言葉を拾い、その意味を考え始めている。 何より陽翔は、死んでいるのかと聞いた。 そこへ嘘を重ねる理由はなかった。「生きてるよ」 美月は、ゆっくり答えた。 陽翔の指が、布団の端をつまんだまま止まる。「……生きてるの?」「うん」「ほんとに?」「本当」 美月は息子の手を握ったまま、もう一度はっきり言った。「陽翔のお父さんは、生きてる」 陽翔はしばらく何も言わなかった。 驚いたようにも見えたし、安心したようにも見えた。 でも六歳の顔の中には、どちらとも言い切れないものがいくつも混じっている。「じゃあ」 陽翔は少し考えてから言った。「どこにいるの?」 美月の胸がきゅっと縮む。「それは……」「遠いところ?」「遠くはないよ」 言ってから、自分で苦笑しそうになった。 物理的には。 少なくとも今は。 けれど、六年間という距離はどう説明すればいいのだろう。「日本にいる?」「いる」「同じ町?」「それは違う」「会ったことある?」 美月の呼吸が一瞬止まった。
第26話 僕のお父さんって、生きてる? 陽翔が父親の話をしたのは、何か特別な出来事があった日ではなかった。 むしろ、美月にとっては拍子抜けするほど普通の木曜日だった。 朝はいつものように目覚ましを二度止め、陽翔に「ママ、あと十分って言ったのに十五分寝てた」と指摘され、慌てて朝食を並べた。新しく買った上履きには陽翔が自分で名前を書き、最後の「翔」だけ少し右上がりになっていた。「これ、読める?」「読めるよ」「変じゃない?」「自分で書いたんだから十分上手」「ママより?」「そこは比べなくていい」「ママの字、急いでると怖いよね」「朝から喧嘩売らないで」 そんなやり取りをして、陽翔を送り出した。 仕事も普段どおりだった。 午前中は三人の子供のリハビリを担当し、昼には冷めた弁当を食べ、午後は記録入力に追われた。怜司からも連絡はなかった。 七年前の調査については、いったん新しい証言を待つことになっている。 だから美月も、意識して考えないようにしていた。 考えたところで、今すぐ答えが出るものではない。 誰が二人を引き離したのか。 どこまで意図的だったのか。 それを知ることは必要だ。 けれど、その答えだけを追い続けていたら、今の生活まで七年前に飲み込まれてしまう。 美月には仕事があり、陽翔がいる。 洗濯物もたまるし、冷蔵庫の牛乳は切れる。 人生は、大きな秘密があっても普通に夕食を要求してくる。 ◇「今日ね、翔太くんのパパ来てた」 夕食の途中、陽翔が唐突に言った。 美月は味噌汁をよそっていた手を止めた。「学校に?」「うん。忘れ物持ってきたんだって」「何を忘れたの?」「図工で使う箱。先生に『また忘れたの?』って言われてた」「陽翔も笑えないでしょう。この前宿題
第25話 誰かが、私たちを別れさせた 翌日の午後、怜司は七年前に神代家秘書室へ勤務していた女性と会っていた。 場所は本社ではない。 相手が神代家との関係を周囲に知られたくないと希望したため、都心から少し離れたホテルのラウンジを使った。怜司も秘書を同席させず、調査担当者だけを一人連れている。 向かいに座る女性は六十代半ばだった。 当時は沙耶の個人秘書を兼ね、神代家の私的な予定や連絡を扱う部署にいたという。「突然お呼び立てして申し訳ありません」 怜司が頭を下げると、女性は緊張した面持ちで首を振った。「いえ。ただ、七年も前のことですから、どこまで正確にお答えできるかは……」「覚えていないことは、覚えていないと言ってください。推測で埋めてもらう必要はありません」「分かりました」 怜司はテーブルの上へ一枚の資料を置いた。 当時の携帯電話契約に関する記録だった。「事故で俺の端末が破損したあと、着信制限と一部転送設定が行われています。申請者として、あなたの名前が残っていました」 女性は眼鏡を掛け直し、資料へ目を落とした。 しばらく見つめてから、ゆっくり頷く。「私の字ですね」「覚えていますか」「端末の手配をしたこと自体は覚えています。怜司様は事故直後、意識が戻っても体調が安定しておられませんでしたから、ご家族や病院と相談して、外部からの連絡を一度整理する必要があると……」「外部からの連絡を整理する、というのは?」「仕事上の電話、取材、親族からの連絡、それから……私的な連絡です」 怜司は表情を変えなかった。「特定の相手からの電話を止めるよう指示された記憶はありますか」 女性はすぐには答えなかった。 その沈黙だけで、怜司の胸の奥が冷えていく。「あります」 ようやく女性が言った。
第24話 その手紙を、俺は読んでいない 七年前の郵便物について調べ始めてから三日後、怜司のもとへ最初の報告が届いた。 朝八時半。 KAMISHIRO MEDICAL本社の執務室にはまだ人の出入りが少なく、窓の向こうでは曇った空の下を車の列が流れている。 怜司はコーヒーへ手をつける前に、調査担当者から送られてきた資料を開いた。 七年前。 交通事故で入院していた期間。 当時、怜司が住んでいたマンションの郵便物は、一定期間、本人ではなく神代家側の管理担当者が回収していた。 そこまでは予想していた。 事故直後は意識がなく、その後もしばらく入院が続いた。公共料金、クレジットカード、会社関連の書類、契約関係など、放置できない郵便物があったためだ。 問題は、その先だった。『回収担当者が郵便物を神代家資産管理室へ運搬。その後、業務・契約・金融関係と私信に分類し、必要書類のみ病院または秘書経由で本人へ届けていたとみられます』 怜司は文章を読み返した。「私信に分類……」 声に出す。 次の資料へ進む。 当時の簡易業務マニュアルの写し。 そこには、入院中の怜司宛て郵便物について、『本人への負担を避けるため、至急性・重要性を家族側担当者が判断する』 と記されていた。 怜司の眉が寄る。 本人への負担。 随分と便利な言葉だ。 見せるかどうかを、本人ではない人間が決められる。 ページをめくる。 当時の郵便物管理担当者は二名。 一人はすでに退職。 もう一人は現在も神代家の関連会社に籍がある。 調査担当者からの補足が続く。『当時の回収担当者の一人に、本人の同意を得たうえで聞き取りを実施しました。個々の郵便物について記憶はないとのことですが、「女性名義の私信」については、資産管理室へ渡した後、神代家秘書室側で確認し
第23話 七年前に送った手紙 日曜日の朝、美月は押し入れの奥から古い段ボール箱を引っぱり出した。 衣替えをするつもりだった。 それだけだったはずなのに、冬物のニットを探している途中で、奥に押し込んだまま何年も触れていない箱が目に入った。 ふたの端が少し潰れている。 大学時代のノートや昔の写真、使わなくなった小物をまとめて入れた箱だった。「ママ、何してるの?」 背後から陽翔が覗き込む。「冬の服出してたら、昔のもの見つけたの」「宝箱?」「そんな立派なものじゃないよ」「開けていい?」「待って。変なもの入ってるかもしれないから」「変なものって?」「大人になると、昔の自分を見るのがちょっと恥ずかしくなるものがあるの」「写真?」「写真も」「見たい」「見せません」「何で?」「ママにも人権があります」「ぼくもあるよ」「知ってます」 陽翔は納得していない顔をしたが、今日は友達と遊ぶ約束がある。 玄関からインターホンが鳴ると、興味はあっさりそちらへ移った。「来た!」「上着持って。あと四時半には帰ってくるのよ」「分かってる!」「お菓子食べすぎない」「分かってる!」「道路飛び出さない!」「それも分かってる!」 返事だけは勢いがいい。 美月は玄関まで送り、友人の母親へ頭を下げた。「いつもすみません」「全然。うちの子が陽翔くん来るの楽しみにしてるから」「四時半には迎えに行きます」「ゆっくりでいいよ」「ありがとうございます」 陽翔が振り返る。「ママ、宝箱勝手に全部見ないでね」「ママの箱なんだけど」「面白いのあったら残しておいて」
第22話 あなたは、本当に知らなかったんだね 公園で三人そろって走った翌日、美月はひどい筋肉痛になった。 朝、目覚ましを止めようと布団から起き上がった瞬間、太腿の裏に鈍い痛みが走る。「……痛っ」 思わず声が漏れた。 隣の部屋から、すぐに陽翔が顔を出す。「ママ、どうしたの?」「何でもない。ちょっと足が」「昨日走ったから?」「……たぶん」 陽翔の顔が、みるみる楽しそうになる。「ママ、弱い」「誰のせいで走ったと思ってるの」「でもママ、本気だったじゃん」「『負けるの怖いんでしょ』なんて言われたら、本気にもなるでしょう」「大人げない」「その言葉、誰から覚えたんだっけ?」「ママ」「教えるんじゃなかった」 陽翔は笑いながら、自分の足を何度か屈伸させた。「ぼく全然痛くないよ」「六歳と二十九歳を比べないで」「怜司さんも痛いかな」「さあ。あの人は一応運動してそうだし」「聞いてみようよ」「朝からそんなことで連絡しないの」「何で?」「大人には仕事があるからです」「ママも仕事あるじゃん」「だから今から準備するの」 そう言いながら立ち上がろうとして、また脚が痛んだ。 陽翔が吹き出す。「やっぱり痛いんじゃん」「笑わないで」 朝からこんな調子では、一日が長そうだった。 ◇ ところが、出勤して一時間ほどすると、今度はスマートフォンが震えた。 休憩時間に画面を見る。 怜司からだった。『昨日、走ったせいで少し脚が痛い』 美月は思わず笑った。 陽翔の言葉を思い出す。『私も』







