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第2話 六歳です

last update Data de publicação: 2026-10-03 11:33:19

第2話 六歳です

 怜司の問いかけが落ちた瞬間、美月には病院の廊下が妙に広く感じられた。

 人の足音も、遠くで鳴る電子音も、受付で交わされる声も、すべてが薄い膜の向こうへ押しやられたように聞こえる。そのくせ、陽翔の小さな手が自分の袖をつかんでいる感触だけは、痛いほど鮮明だった。

「……ママ?」

 陽翔は怜司ではなく、美月の顔を見ていた。何かまずいことをしてしまったのかと、不安になっているのだろう。

 その表情を見た瞬間、美月の中で何かが切り替わった。

 怜司が何を疑っていようと、今ここで守るべきなのは七年前の自分ではない。目の前にいる息子だった。

「陽翔、先に検査室へ行っていて。書類を書き終わったら、ママもすぐに行くから」

「でも、この人……ママの知り合いなんでしょ?」

「そうよ。昔の知り合い。少し話すだけだから心配しなくていいの」

 知り合い。

 七年前、世界で一番好きだった男を表すには、ずいぶん乾いた言葉だった。

 怜司の眉がわずかに動いたものの、陽翔の前だからなのか、何も口を挟まなかった。

「本当にすぐ来る?」

「行くよ。検査を一人で受けさせたりしないから、先に先生のところへ行っていて」

 陽翔はまだ納得しきっていない顔をしていたが、そばにいた看護師に促され、何度か振り返りながら廊下の先へ歩いていった。

 小さな背中が検査室の扉の向こうへ消えるまで見届け、美月はようやく息を吐いた。

 振り向きたくなかった。

 けれど、このまま逃げても怜司が諦めるとは思えない。昔から彼は、一度疑問を持てば、自分なりに納得できるところまで確かめずにはいられない男だった。

 その性格が今の彼を世界的企業の経営者にしたのかもしれないが、美月にとっては迷惑でしかない。

「今みたいなこと、もう陽翔の前では聞かないで。あの子には何の事情も分からないんだから」

 美月が声を抑えて言うと、怜司はわずかに顎を引いた。

「それは分かった。あの子の前では聞かない。でも、二人で話せるなら答えてほしい」

「そういう意味で言ったんじゃないわ。あなたが何を知りたいのかは分かってるけど、私には答える義務なんてないでしょう」

「義務の話をしてるんじゃない」

 怜司の声も低かった。怒鳴ってはいないが、感情を押し殺していることは分かる。

「じゃあ何の話? 七年ぶりに偶然会って、息子を見た途端に『自分の子かもしれない』なんて考えたから、昔の恋人なら説明して当然だと思ってる?」

「そこまで勝手なことを言ってるつもりはない。ただ、あの子を見たら何も考えるなというほうが無理だ。似てると思ったし、年齢だって気になる」

「子供なんて、見る人によって誰にでも似て見えるものよ」

「本気でそう言ってるのか?」

 怜司の問いに、美月は答えなかった。

 今なら、まだ嘘をつける。

 違う。

 あなたの子ではない。

 別の男性との子よ。

 言葉にしてしまえば、それだけのことだった。

 けれど、怜司はすでに陽翔の顔を見ている。

 あの眉も、鼻筋も、考え込むときにわずかに下唇を噛む癖も。美月が何年も気づかないふりをしてきたものを、彼自身が見てしまった。

「……何歳なんだ」

 やがて怜司が尋ねた。

 来ると分かっていた質問だったのに、美月の胸は強く締めつけられた。

「それを聞いてどうするの?」

「今すぐどうこうするつもりはない。ただ、知らないまま帰れと言われても、俺には無理だ」

「知らないまま七年間生きてきたじゃない」

 口にしてから、美月は自分の言葉の鋭さに気づいた。

 怜司の目がわずかに細くなる。

「……その言い方は、どういう意味だ?」

「別に深い意味なんてない」

「あるだろ。さっきも『最後に会ってない』と言った。今も、俺が何かを知らないまま七年間過ごしたみたいな言い方をした。俺の知らないところで何があった?」

「今はその話をしたくない」

「分かった。じゃあ七年前のことは今は聞かない。だから、せめてあの子の年齢だけ教えてくれ」

 昔より少しだけ、引き方を覚えたらしい。

 全部を一度に聞こうとはしない。その変化がなぜか美月を苛立たせた。七年前にもそれができていたなら、と考えてしまうからだ。

「六歳よ」

 結局、美月は答えた。

 怜司はすぐには反応しなかった。

「……六歳なんだな」

「そう。もうそれでいいでしょ」

 けれど、怜司の顔から少しずつ血の気が引いていくのが分かった。

 頭の中で計算しているのだろう。

 二人が別れた時期。

 妊娠期間。

 陽翔の年齢。

 誰にでも辿り着ける答えだった。

「誕生日はいつだ?」

「そこまでは答えない」

「美月」

「もう十分でしょう。年齢まで教えたんだから、これ以上は聞かないで」

 美月は検査室へ向かおうとした。

 怜司が反射的に手を伸ばしかけ、美月は一歩下がった。

 その瞬間、怜司の手が止まる。

 二人の間に、七年という時間が急に形を持って現れたようだった。

 昔なら、美月は彼の手を避けなかった。

 怜司も、美月へ触れることをためらわなかった。

「……悪かった。触るつもりはない」

 怜司はすぐに手を下ろした。

「そうして。陽翔の前でも、私の前でも、今は勝手なことをしないで」

「分かった。ただ、一つだけ言わせてくれ。もしあの子が俺の子なら、俺は何も知らなかったでは済ませられない」

「もし、ね」

「まだ何も確かじゃないからそう言ってるだけだ。決めつけて責めるつもりはない」

「責める?」

 美月は思わず彼を見た。

「あなたが私を責めるの?」

「今、責めると言ったわけじゃない」

「でも頭をよぎったんでしょう。もし自分の子なら、どうして黙っていたんだって」

 怜司は黙った。

 その沈黙だけで十分だった。

 美月の胸の奥で、七年前から乾ききらない傷が疼いた。

「そう思うのは勝手よ。でも、七年前のことを何も知らないあなたに、今になって『どうして言わなかった』なんて言われたくない」

「だから、その七年前のことが分からないんだ。俺には、美月が突然いなくなったとしか——」

「違う」

 美月は反射的に遮った。

 怜司が口を閉じる。

「……何が違う?」

 問い返す声には怒りより困惑があった。

 美月はそこで言葉を止めた。

 ここで全部話してしまえばいい。

 病院へ何度も行ったこと。

 会わせてもらえなかったこと。

 怜司本人がもう会いたくないと言っていると伝えられたこと。

 別れの手紙を受け取ったこと。

 妊娠が分かったあとも、それでも一度だけ話したくて連絡したこと。

 けれど今、この廊下で、陽翔が検査を受けている間にする話ではなかった。

 それ以上に、美月自身がまだ怜司の言葉を信用できない。

「今は話さない。陽翔の検査が最優先だから」

 美月がそう言うと、怜司はしばらく黙っていた。

 やがて、感情を飲み込むように息を吐いた。

「……分かった。ここで無理に聞くのはやめる」

「ずいぶん物分かりがよくなったのね」

「褒めてないだろ、それ」

 昔と変わらない返しだった。

 美月はほんの一瞬、笑いそうになった。

 その自分が嫌で、すぐに顔を背ける。

「もう行くね。あなたも仕事に戻って。さっきから待たせてる人がいるでしょう」

「仕事は調整できる」

「そういう問題じゃないわ。七年ぶりに会ったからって、今日一日で全部どうにかしようとしないで」

 その言葉に、怜司は少し驚いたような顔をした。

 美月自身も、口にしてから気づいた。

 それは拒絶であると同時に、「今日で二度と会わない」とは言っていない言葉だった。

「……分かった」

 怜司はそれ以上追わなかった。

 美月は書類を持ち直し、検査室へ向かう。

 数歩進んだところで、背中に声が届いた。

「美月」

 呼ばないでと言ったのに、と腹が立って振り返る。

 怜司は少し気まずそうに眉を寄せた。

「悪い。これだけ聞いたら、本当にもう行く。あの子の名前、陽翔っていうんだな」

「さっき呼ばれてたでしょう」

「ああ。だから確認しただけだ」

 美月が返事をしないでいると、怜司は廊下の奥、陽翔が消えた扉のほうへ視線を向けた。

「……いい名前だな」

 それだけだった。

 美月の胸の奥に、予想もしなかった痛みが走った。

 なぜそんな普通の言葉で泣きそうになるのか分からない。

 本当なら六年前、出生届を書く前に一緒に悩んでいたかもしれない男から、初めて息子の名前を褒められた。

 その事実を認めてしまうと涙が出そうで、美月は何も答えずに歩き出した。

     ◇

「ママ、遅かった」

 検査室へ入ると、陽翔はベッドの端に座り、胸元に検査用の機器をつけてもらっているところだった。

「ごめんね。書類もあったし、少し話が長くなっちゃった」

「やっぱり、さっきの人と話してたんでしょ?」

「見てたの?」

「ちょっとだけ。でも盗み聞きじゃないよ。廊下だから普通に聞こえたんだもん」

 先回りするような言い訳に、美月は苦笑した。

「まだ何も言ってないでしょ」

「ママ、そういう顔してたから」

「どんな顔?」

「子供は大人の話を聞かなくていい、って言いそうな顔」

 六歳児にそこまで読まれているのかと思うと、叱る気も失せる。

 美月はベッド脇の椅子へ座り、機器のコードを邪魔しないよう陽翔の髪を軽く整えた。

「昔の知り合いなの。ずっと会ってなかったから、ちょっとびっくりしただけ」

「七年くらい?」

 美月の手が止まった。

「どうして七年って分かったの?」

「その人が言ってたよ。『七年だぞ』って。ぼくが検査室に行く前」

 聞かれていたらしい。

 子供の耳は、大人が思っているよりずっと都合よく閉じてはくれない。

「そう。七年くらい会ってなかった人」

「じゃあ、ぼくが生まれる前から知ってる人なんだね」

「……そうね」

 陽翔は美月の顔をじっと見たあと、少し声を落とした。

「ママ、あの人と仲悪いの?」

「どうして?」

「だって、ママ怒ってたし、あの人も困ってた。でも、すごく嫌いな人を見る顔とも違ったから」

 美月は思わず息を止めた。

 六歳の子供にそんなところまで見抜かれるとは思っていなかった。

 嫌いなら、もっと楽だった。

 七年間、何度も嫌いになろうとした。裏切られたのだと思い込み、怜司のことなんて忘れればいいと自分に言い聞かせた。

 けれど、完全にはできなかった。

「大人にはね、好きとか嫌いとか、それだけじゃ説明できない人もいるの」

「ふうん。面倒くさいね」

 あまりにも率直な感想に、美月はとうとう笑ってしまった。

「本当にね。大人って面倒くさいのよ」

「ぼく、大人になるのやめようかな」

「それは無理かな」

「じゃあ、なるべく面倒くさくない大人になる」

「そうしてくれるとママは助かる」

 陽翔も笑った。

 その笑顔を見て、美月は少しだけ肩の力を抜いた。

 けれど、胸の奥に残った不安までは消えない。

 怜司はもう陽翔を見た。

 年齢も知った。

 そして七年前の認識に食い違いがあることにも、気づき始めている。

 今日だけで終わるはずがなかった。

     ◇

 検査を終え、病院を出る頃には雨が上がっていた。

 濡れた道路に夕方の光が反射し、街全体が薄い金色に染まっている。陽翔は検査で疲れたのか、美月の手を握ったまま何度もあくびをこらえていた。

「オムライス、どうする? 眠いなら今日は家で食べてもいいけど」

「食べる。眠くないよ」

「今、すごく大きなあくびしてたけど」

「口を開けただけ」

「ずいぶん長く?」

「顎の運動」

「そんな運動、いつ覚えたの」

 陽翔は少し考えたあと、自分でも苦しくなったのか笑った。

 いつもの会話だった。

 その平凡さが今はありがたい。

 できることなら今日の出来事をなかったことにして、このまま陽翔とオムライスを食べ、学校であった話を聞き、夜になれば二人で眠りたい。

 けれど、美月には分かっていた。

 怜司は、もう引き返さない。

     ◇

 その頃、怜司は会社へ戻っていた。

 予定されていた会議にも出たし、取締役からの報告も聞いた。資料をめくり、必要な質問をして、いくつかの判断も下した。

 表面上はいつもと変わらない。

 だから、会議室を出ていった社員たちは誰も気づかなかった。

 怜司が説明の半分も頭に入れていなかったことに。

 執務室へ戻ると、秘書がタブレットを確認しながら声を掛けた。

「本日の残りですが、十九時から海外投資家とのオンライン会議、その後二十一時からシンガポール支社との定例があります。病院視察が少し延びましたので、最初の会議を十五分後ろへ——」

「明日以降に回せるものは、全部ずらしてくれ」

 秘書は珍しく顔を上げた。

「すべて、ですか? 体調がお悪いのであれば、オンライン会議も代理を立てますが」

「体調じゃない。急ぎでないものだけでいい。今日は少し、一人で考える時間が欲しい」

 秘書は数秒だけ怜司の顔を見たが、それ以上は聞かなかった。

「承知しました。先方との調整はこちらで行います」

「ああ、頼む」

 扉が閉まる。

 静かになった執務室で、怜司はすぐには椅子へ座らなかった。

 窓の向こうには夕暮れの街が広がっている。いつもなら新規プロジェクトの数字か、翌日の予定でも考える時間だった。

 今日は違った。

 頭にあるのは、たった一つ。

 六歳。

 美月と別れたのは七年前。

 いや、自分の記憶では、別れたというより捨てられた。

 事故から目を覚ましたあと、美月はすでに自分の前から消えていた。連絡はなく、家族からは「彼女はもう終わりにしたいと言っている」と聞かされた。

 金を受け取って出ていった、とも。

 それを信じたくなかったから、何度も確かめた。

 けれど返ってきた答えは同じだった。

 そして今日、美月は自分に向かって言った。

 最後に会っていない。

 七年前のことを何も知らない。

 その言葉が引っかかる。

「……何なんだよ」

 誰に聞かせるでもなく、声が漏れた。

 怜司はスマートフォンを取り出し、クラウドに残した古い写真を開いた。

 普段は見ない。

 削除できなかっただけだ。

 七年前。

 八年前。

 大学近くの安いカフェで笑っている美月。夏祭りで浴衣を着た美月。海辺で髪を押さえながらこちらを睨んでいる美月。怜司が焦がしたパスタを前に、腹を抱えて笑っている二人。

 どれも今の自分の生活から遠すぎて、他人の写真のように思える。

 怜司はしばらく画面を見たあと、別のフォルダを開いた。

 神代家に保管されていた古い家族写真を、数年前にデータ化したものだった。

 六歳の自分。

 入学式の日、母親の隣で妙に緊張した顔をして立っている。

 怜司はその写真を拡大した。

 眉の形。

 鼻筋。

 顎の輪郭。

 真面目な顔をしたときに、わずかに下唇を噛む癖。

 病院で見た少年の顔が、嫌になるほど鮮明に蘇る。

 似ている子供などいくらでもいる。

 年齢が合うからといって、それだけで何かが証明されるわけではない。

 美月が自分と別れたあと、別の男と付き合い、結婚し、子供を持った可能性だって当然ある。

 そう考えるべきだった。

 それなのに、一度生まれた疑念はもう消えてくれなかった。

 もし、本当に自分の息子だったら。

 六年間。

 自分の知らない場所で、自分の子供が生きていたことになる。

 初めて笑った日も、歩いた日も、熱を出した夜も、幼稚園へ行った朝も、自分は何一つ知らない。

 そこまで考えた瞬間、怜司はスマートフォンを伏せた。

 まだ確定してもいないことを考えるべきではない。

 分かっている。

 それでも数秒後には、また手に取っていた。

 今度は、美月と最後に撮った写真を開く。

 写真の中で美月は怜司の肩にもたれ、何の疑いもない顔で笑っている。

 その数週間後、自分は事故に遭った。

 目を覚ましたときには、すべてが終わっていた。

 ずっとそう思ってきた。

 けれど今日、美月はまるで違う七年前を知っているような顔をしていた。

 自分が信じてきた別れは、本当に事実だったのか。

 そして、もし陽翔が本当に自分の息子なのだとしたら、美月はなぜ何も言わなかったのか。

 いや。

 そもそも、美月は本当に「何も言わなかった」のか。

 怜司は画面の中で笑っている七年前の美月を見つめたまま、初めて自分の記憶ではなく、記憶の外側にあったものを疑い始めた。

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